日々降ってくる小ネタを忘れないように集めてみました。
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 ラフマニノフの映画をみたので、wikipediaで調べてみました。
モスクワ音楽院では、ズヴェーレフに厳しい教えを受け、アントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後には、ジロティにもピアノを学んだ。ズヴェーレフとは作曲をやりたいという意向で対立し、親戚のサーチン家に身を寄せることになり、将来の妻と出会った。アレクサンドル・スクリャービンとは同級であった。 18歳(1891年)にモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。ゴールドメダルは、通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。 同年ピアノ協奏曲第1番を完成。1892年には同院作曲科を卒業。17日間で歌劇『アレコ』を書き上げ、金メダルを受領。歌劇『アレコ』はチャイコフスキーの目にとまり、翌年(1892年)ボリショイ劇場で上演されたが、チャイコフスキーは同年に死去。この影響で、ピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲した。ちなみに、チャイコフスキーも友人の死を悼んで同名の曲を作曲している。 ラフマニノフの最初の交響曲第1番は1897年に初演されたが、ツェーザリ・キュイをはじめとする批評家に酷評された。 その理由はアレクサンドル・グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかったこと、ロシア聖歌の旋律を執拗に用いた長大な作品が当時の聴衆に受け入れらなかったことなどが考えられる。この失敗は、ラフマニノフに神経衰弱ならびに完全な自信喪失を引き起こした。 その後、マモントフ・オペラの第二指揮者の地位に就き、シャリアピンとの交遊を持つ。シャリアピンの結婚式では、介添人の一人として立ち会った。この間、交響曲第1番の失敗の後、ごくわずかの曲しか作曲されていない。 作曲家としてのラフマニノフに決定的な影響を与えたのは、精神科医ニコライ・ダーリとの出会いであり、彼に心理療法を受けることによって徐々に自信を取り戻していった。 ダーリは、ラフマニノフに「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法を行い、その顕著な成果はピアノ協奏曲第2番(1901年)として実を結んだ。ラフマニノフはこの曲をダーリに捧げた。 この曲は作曲者自身の独奏により初演され、非常に好意的に受け取られ、現在でも最も人気がある作品である。ピアノ協奏曲第2番は作曲家としての名声を確立し、ラフマニノフは有名な尊敬されるピアニストとなった。ダーリはアマチュアのヴィオラ奏者でもあり、この作品の演奏を受け持つこともあったが、演奏終了後は彼個人への拍手が止まなかったとも言われる。 1902年には従妹のナターリア・サーチナと結婚し、半生を共にする。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要であった。 1904年にボリショイ劇場の指揮者となり、約1年間務める。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。 1909年にはピアノ協奏曲第3番を完成。秋にはアメリカ合衆国への演奏旅行を行い、その際はピアニストを務めた。 この旅行はアメリカでの人気を高め、1917年のロシア革命を逃れて、1918年に合衆国に移住した。 移住先では自活するために演奏活動に多くの時間を費やす必要があったので、新しい作品は少なくなっていった。アメリカでは、ピアノ制作者のスタインウェイと親交を深め、幾度かピアノを贈呈されている。 1931年にスイスのルツェルン湖畔に別荘(セナール)を建て、ヨーロッパとアメリカ合衆国を行き来しながら演奏活動を続ける。「セナール(Senar)」は、セルゲイ(Sergei)、ナターリア(Natalia)、ラフマニノフ(Rachmaninov)の頭文字を取ったものである。 その中でも『パガニーニの主題による狂詩曲』は1934年に書かれ、没後数十年の流れの中で幾人もの手により編曲されたものも含め、日本はもとより世界的に度々TVコマーシャルやドラマ等で流されることからも、衆人によく知られる有名な作品の1つである。この後、交響曲第3番、交響的舞曲(最後の完成された作品)などが作曲された。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は死の直前まで続けられた。 ビバリーヒルズ(カリフォルニア州)で1943年に癌のため死去し、ニューヨーク市近郊のヴァルハラのロシア人墓地に埋葬された。
ラフマニノフは1910年代に、エジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードに最初に録音を行った。彼は自分自身を偉大なピアニストとは見なさず、自分の演奏の質が変化すると考えていた。そのため、自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを頼んだ。ところが、おそらく単純な不注意のため、エジソンレコードは、未承認の録音を販売してしまい(当時は複数のマスターからレコードを大量生産することが容易だった)、怒ったラフマニノフはエジソンレコードを去って、以後はビクタートーキングマシン社(後にRCAビクター社)と契約を結んだ。 RCAからCDで発売された「ラフマニノフ全集」(10枚組、国内発売1992年・再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残された総てのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩「死の島」、多くのピアノ作品、歌曲を含む。クライスラーとの共演によるグリーグのヴァイオリンソナタ第3番などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらの幾つかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。 アコースティック録音以外にも、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。最初は1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、 「みなさま、私(セルゲイ・ラフマニノフ)は、たった今、私自身が演奏するのを聞きました!」。 余談だが、ラフマニノフはピアニストのなかでも巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた)。この恵まれた手は、マルファン症候群という疾患によるという説もある。
完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、歌劇がある。また歌劇は16曲も作曲したが、そのうちの3曲のみが知られており、残りの13曲は構想や未完に終わっている。 作品の調性としては短調が圧倒的に多く、特にニ短調はラフマニノフの好んだ調性である。また、ピアノの和音には、随所に鐘の響きが秘められている。彼の様々な作品に、賛美歌『怒りの日』(Dies Irae)が好んで用いられている。 ピアノ曲は、自身が優れたピアニストであったこともあり、演奏効果の高い、優れた作品が多い。ロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者ということができる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。協奏曲の第2番と第3番は演奏される機会も多く、この分野での重要なレパートリーである。
PR 東京モノレールにのってて忘れ物をしたので、そのついでの東京モノレールを調べてみました。 気になったので、HPから拾ってみました。 〔サンゴ〕 本稿ではサンゴのうち、サンゴ礁を作る「造礁サンゴ」に限定して話を進めていきます(以下、単に「サンゴ」と呼びます)。樹木のように枝分かれしているものがあり、一見、サンゴは植物にみえます。しかし、サンゴはイソギンチャクやクラゲの仲間で、刺胞動物に分類され、口が1つだけ開いた袋状の体を持ち、刺胞という他の動物を捕らえる毒針が口の周りの触手に入っています。その触手でサンゴは動物プランクトンを捕らえ、口から体内に取り込み、消化して栄養をとります。 サンゴはまた、小さな褐虫藻(単細胞藻類)をたくさん体内に住まわせて共生し、二酸化炭素と栄養塩をその褐虫藻に供給します。すると、それらの栄養塩と太陽光を利用して光合成を行うことで、共生藻はエネルギーを作り出し、それをサンゴにも提供します。 〔サンゴ礁〕 動物の1匹1匹、または群体の1つ1つを「サンゴ」といい、その「サンゴ」と「石灰分を分泌する生物」の遺骸が、厚く堆積してできたものを「サンゴ礁」呼びます。ですから「サンゴ」は生物を、「サンゴ礁」は地形を指します。郡体の骨格の形は、枝状・塊状・テーブル状など、生息場所の環境に応じてさまざまです。 サンゴ礁の地形は、陸地とサンゴ礁とが接した裾礁、陸地とサンゴ礁の間に浅い海を持つ堡礁、サンゴ礁だけがリンク状につながった環礁の3つのタイプに分けられます。サンゴ礁の浜辺には板状の岩石が海岸線と平行に列を作っていますが、これらはビーチロックという海岸砂岩で、沖縄では板千瀬と呼んでいます。ビーチロックは、海岸を波から守ってくれる自然の防波堤であり、世界の沿岸のおよそ6分の1はサンゴ礁に守られています。したがって、もし礁が崩壊し、それに海面上昇が加わると、熱帯と温帯の多くの沿岸における暴風雨の被害はいちじるしく増大し、マングローブ林の生態系の崩壊も加速的に進むと考えられています。 礁の生命群系は海岸のわずか0.3%を占めるに過ぎません。しかしそこは地球上で熱帯雨林に次いで2番目に豊かな生物種の宝庫であり、これまでに確認された海洋生物種の4種に1種、海洋魚類の少なくても65%が生息しています。サンゴ礁に生息する魚類は世界の漁獲量の約10%を占め、途上国にあっては25%にのぼると推定されていて、そこからはまた、独特の薬品が大量に生まれる可能性があると期待されています。 白化現象 〔白化なぜ?〕 白い砂浜に、“金銀サンゴ”と呼ばれる美しいサンゴの群生、魚類やえび・貝・繁茂する海藻類と、そのなかを出入りする原色の小魚たち。このファンタジーの世界こそ、日本人が抱くサンゴの海です。しかし、記録映像『無言の番人~サンゴ礁と温暖化~』の海は、雪景色とも見まがう白一色の世界でした。 実は、サンゴの色は「共生藻類の色」なのです。ストレスに対してサンゴは非常に弱く、異変があるとその組織内に共生する藻類を追い出します。すると、サンゴ本来の色にもどりますが、これが白化と呼ばれる現象です。白化が長引き、共生藻が戻らなければ、共生藻から栄養分が得られなくなりサンゴは死滅します。棲家を失った魚も去り、光あふれるサンゴ礁は瓦礫の海に変わります。この光景こそが、映像で見た白一色の世界でした。 〔白化の原因〕 ① 陸上で二酸化炭素の増加があれば、その一部は海に固定され海水温上昇の原因になります。この海水温の上昇や低水温・強い光・紫外線・低い塩分などにも反応してサンゴはストレスを起こします。特に、夏場の海水温度がおよそ二八度を超えると、サンゴは藻類を追い出します。 ② サンゴ礁は地球上のもっとも古くからある生物群集の1つです。そのサンゴ礁がいま突然脆弱になった原因は、実は気温の変化の大きさではなく、気温の変化の「速さ」にあると考えられています。その変化に直ぐには反応できないからです。 ③ 石垣島では、20年以上にわたり、土地改良事業や大規模な土地改変が続き、丘は削られ、谷は埋められ、主に畑地が増やされました。その結果、降雨のたびに大量の化学肥料が表土とともにサンゴ礁に流れ込み、サンゴを傷めています。また農業廃水に含まれる窒素とリンは藻類に栄養分を与えるため、それを起因にいま、世界中の沿岸水域で藻類の大量増殖が頻繁に起きるようになっています。増殖した藻類は水中の酸素を減少させ「死の海域」を作り出し、さらにサンゴ礁の上を漂って日光を遮断し、サンゴを直接追い出します。 ④ このほか、森林の伐採による磯焼けやダム建設による海への栄養供給のストップ、食物連鎖上位種の魚の乱獲なども生態系を乱し、サンゴにストレスを与えます。 サンゴ生態系が消える日 非常に複雑な生態系の中に生命体が密集する場所、そこがサンゴ礁です。サンゴ礁は、世界最古の生態系で約5億年の歴史を持っていますが、サンゴはストレスに弱く、サンゴ礁の自然は簡単に壊れてしまうガラスの城なのです。 1990年代後半には、サンゴ生息域の大部分で海面温度が過去最高を記録しました。そのため、アフリカ東岸からインド南部にいたるインド洋の広大な海域では、サンゴの70%が死滅したと推定されています。地球の平均気温は、1950年の13.8℃から98年の14.6℃に上昇し、少なくとも過去1200年間でもっとも高い水準に達しています。今後もさらに温暖化は進み、地球の気温は2100年までに1℃から3.5℃に上昇すると多数の気象学者は予想しています。するとこれは、非常に限られた温度帯の中でしか生きられないサンゴにとって、まったく厳しい見通しです。 アメリカ・フロリダ州にミニ地球「バイオスフィアⅡ」があります。そこでのシミュレーションによると、50年後、ほとんどのサンゴは死滅します。サンゴの消滅は海中の生態系、海岸の生態系にただならぬ変化をもたらしますから、この変化が引き金となって悪循環に陥るようなことがあれば、地球システムそのものが崩壊の危険性に直面します。 大学時代の先輩が、食品関係の会社につとめていて、
テレビでやっていた高野山の福智院。
高野山にはホテルがないが、こうしたお寺に泊まれるようで、なんだかおもしろそう。 真言宗のお寺のくせに、コーヒーコーナーとかサウナとか天然温泉があったりして、 うれしいけどちょっと複雑な気分(笑)。 http://www.fukuchiin.com/shukubou/index.html
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