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ラフマニノフの映画をみたので、wikipediaで調べてみました。
映画は楽しかったですが、つかれて少し寝てしまいました。
アレクサンドル・グラズノフのせいで神経衰弱になっちゃって、かわいそうに。
指揮者が違ったらもっと名曲を残していたかも。


セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Сергей Васильевич Рахманинов, Sergey Vasilievich Rachmaninov; 1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日) は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。

[編集] 名前の表記
彼の姓「ラフマニノフ」はRachmaninovの他に、Rachmaninoff, Rachmaninow, Rakhmaninov等と表記されることがある。「セルゲイ」の部分も同様に、Sergei, Serge等としばしば表記されるが、これらは全てキリル文字表記Сергей Рахманиновの転写である。ラフマニノフ本人は欧米でSergei Rachmaninoffと綴っていた。


[編集] 生涯
生地は従来ノヴゴロド州オネグとされてきたが、近年の研究では同州セミョノヴォに生まれ、生後間もなくオネグに移ったとされる。裕福な貴族の家系の出身だが、作曲家が生まれた頃にはすでにかなり没落していたらしい。5歳の時に母から最初のピアノのレッスンを受けた。オネグは自然に恵まれた地方で、多感な少年時代をおくった。母は厳格で内向的な人柄、父は陽気であった。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移った。ペテルブルグ音楽院では、教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生であったが、12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院のニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

モスクワ音楽院では、ズヴェーレフに厳しい教えを受け、アントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後には、ジロティにもピアノを学んだ。ズヴェーレフとは作曲をやりたいという意向で対立し、親戚のサーチン家に身を寄せることになり、将来の妻と出会った。アレクサンドル・スクリャービンとは同級であった。

18歳(1891年)にモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。ゴールドメダルは、通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。

同年ピアノ協奏曲第1番を完成。1892年には同院作曲科を卒業。17日間で歌劇『アレコ』を書き上げ、金メダルを受領。歌劇『アレコ』はチャイコフスキーの目にとまり、翌年(1892年)ボリショイ劇場で上演されたが、チャイコフスキーは同年に死去。この影響で、ピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲した。ちなみに、チャイコフスキーも友人の死を悼んで同名の曲を作曲している。

ラフマニノフの最初の交響曲第1番は1897年に初演されたが、ツェーザリ・キュイをはじめとする批評家に酷評された。

その理由はアレクサンドル・グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかったこと、ロシア聖歌の旋律を執拗に用いた長大な作品が当時の聴衆に受け入れらなかったことなどが考えられる。この失敗は、ラフマニノフに神経衰弱ならびに完全な自信喪失を引き起こした。

その後、マモントフ・オペラの第二指揮者の地位に就き、シャリアピンとの交遊を持つ。シャリアピンの結婚式では、介添人の一人として立ち会った。この間、交響曲第1番の失敗の後、ごくわずかの曲しか作曲されていない。

作曲家としてのラフマニノフに決定的な影響を与えたのは、精神科医ニコライ・ダーリとの出会いであり、彼に心理療法を受けることによって徐々に自信を取り戻していった。

ダーリは、ラフマニノフに「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法を行い、その顕著な成果はピアノ協奏曲第2番(1901年)として実を結んだ。ラフマニノフはこの曲をダーリに捧げた。

この曲は作曲者自身の独奏により初演され、非常に好意的に受け取られ、現在でも最も人気がある作品である。ピアノ協奏曲第2番は作曲家としての名声を確立し、ラフマニノフは有名な尊敬されるピアニストとなった。ダーリはアマチュアのヴィオラ奏者でもあり、この作品の演奏を受け持つこともあったが、演奏終了後は彼個人への拍手が止まなかったとも言われる。

1902年には従妹のナターリア・サーチナと結婚し、半生を共にする。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要であった。

1904年にボリショイ劇場の指揮者となり、約1年間務める。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。

1909年にはピアノ協奏曲第3番を完成。秋にはアメリカ合衆国への演奏旅行を行い、その際はピアニストを務めた。 この旅行はアメリカでの人気を高め、1917年のロシア革命を逃れて、1918年に合衆国に移住した。

移住先では自活するために演奏活動に多くの時間を費やす必要があったので、新しい作品は少なくなっていった。アメリカでは、ピアノ制作者のスタインウェイと親交を深め、幾度かピアノを贈呈されている。

1931年にスイスのルツェルン湖畔に別荘(セナール)を建て、ヨーロッパとアメリカ合衆国を行き来しながら演奏活動を続ける。「セナール(Senar)」は、セルゲイ(Sergei)、ナターリア(Natalia)、ラフマニノフ(Rachmaninov)の頭文字を取ったものである。

その中でも『パガニーニの主題による狂詩曲』は1934年に書かれ、没後数十年の流れの中で幾人もの手により編曲されたものも含め、日本はもとより世界的に度々TVコマーシャルやドラマ等で流されることからも、衆人によく知られる有名な作品の1つである。この後、交響曲第3番、交響的舞曲(最後の完成された作品)などが作曲された。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は死の直前まで続けられた。

ビバリーヒルズ(カリフォルニア州)で1943年に癌のため死去し、ニューヨーク市近郊のヴァルハラのロシア人墓地に埋葬された。


[編集] ピアニストとしてのラフマニノフ(録音)
ロシア人ならびにロマン派の伝統の中の長い歴史上で、ラフマニノフはピアノ・レパートリーの非常に優れた解釈者であった。レコードとして残された演奏は多くはないが、全てに価値がある。なかでも最も重要なのは、彼自身の4曲の協奏曲の演奏である。

ラフマニノフは1910年代に、エジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードに最初に録音を行った。彼は自分自身を偉大なピアニストとは見なさず、自分の演奏の質が変化すると考えていた。そのため、自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを頼んだ。ところが、おそらく単純な不注意のため、エジソンレコードは、未承認の録音を販売してしまい(当時は複数のマスターからレコードを大量生産することが容易だった)、怒ったラフマニノフはエジソンレコードを去って、以後はビクタートーキングマシン社(後にRCAビクター社)と契約を結んだ。

RCAからCDで発売された「ラフマニノフ全集」(10枚組、国内発売1992年・再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残された総てのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩「死の島」、多くのピアノ作品、歌曲を含む。クライスラーとの共演によるグリーグのヴァイオリンソナタ第3番などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらの幾つかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。

アコースティック録音以外にも、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。最初は1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、

「みなさま、私(セルゲイ・ラフマニノフ)は、たった今、私自身が演奏するのを聞きました!」。
と言ったと伝えられる。 アムピコのための録音は、1929年頃まで続いた。

余談だが、ラフマニノフはピアニストのなかでも巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた)。この恵まれた手は、マルファン症候群という疾患によるという説もある。


[編集] 作品
作品に関してはセルゲイ・ラフマニノフの作品一覧も参照されたい。
作品番号で45の作品が残されているが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれている。出国後のアメリカ時代は生活の糧としてのピアニストの活動が多忙であったことなどにより、その後完成された作品は僅かに6作品に過ぎない。ラフマニノフの総ての作品は調性を持つ伝統的な書法の範囲内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢は1920年代以降の作品についても保たれた。

完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、歌劇がある。また歌劇は16曲も作曲したが、そのうちの3曲のみが知られており、残りの13曲は構想や未完に終わっている。

作品の調性としては短調が圧倒的に多く、特にニ短調はラフマニノフの好んだ調性である。また、ピアノの和音には、随所に鐘の響きが秘められている。彼の様々な作品に、賛美歌『怒りの日』(Dies Irae)が好んで用いられている。

ピアノ曲は、自身が優れたピアニストであったこともあり、演奏効果の高い、優れた作品が多い。ロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者ということができる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。協奏曲の第2番と第3番は演奏される機会も多く、この分野での重要なレパートリーである。

 

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